なにかのカタチをさがしてる
娘を亡くして2年を迎える。
まだ寒くて、その深夜には雪が積もった。
まだハッキリ憶えている。
今朝、冷蔵庫から麦茶を出してコップに注いだら、その1杯切りでポットの中身が空になった。息子の朝食のおかずがちょっと塩っぱかったし、この時期は湿度も低くて喉が乾くから入れてみたんだが、息子の分1杯切りでなくなった。ママとボクは朝コーヒーを飲むので要らない。いつもはそれで終わりだけど今日はポットをキレイに洗って、新しい麦茶をセットすることにした。麦茶のある棚を開けると、透明のケースの中に麦茶のパックが見えた。「むぎ茶」とシールが貼ってある。これなら誰にでもわかる。中身も見える。ケースを下ろしてフタを開けると、残りは10パックくらいだ。ポットにはパックを2つ入れてセットする。冷蔵庫には、そのポットがいつも2本入っている。何かと飲む機会も多いから、きっとすぐに無くなるし補充が必要だ。今日明日にもママは補充分を準備するだろう。朝食をボクが用意するなんてホントに稀だし、今日から仕事始めだったから何となく朝が早くなってしまって、手持ち無沙汰を埋めるようなもんだった。それに、こうしたことを「しないといけない」と思っているからでもあった。
当たり前のようにいつも麦茶がそこにあり、当然のようにそれを飲み干して、無くなれば「無い」と口にする。そうすればまた麦茶が、絶妙なタイミングでそこに現れる。そんな毎日を当たり前のように過ごしてきて、今、麦茶がセットされるまでの一連の流れを知って、少し胸がすくむ。
ボクはホントに父親だったのだろうか・・・。
ウチのことを、何も知らないで生きてしまった・・・。
帰宅したら麦茶のパックの残りを見ておこう。
「まだ」だったとしても、だからって勝手に補充なんて、よそう。
そんなことしたら、そのわざとらしさが、我ながら鼻につく。
だけど、そのままにしておくのもなんだか違う気がするんだけど、
何をするにもどうしようもなく、
ホントにどうしようもない。